自己紹介とご挨拶のページです。よろしければのんびり読んでいってくださいね。
プロフィール
岡村 茉弥(おかむら まや)
西洋占星術家。中国語通訳者、会社員、中国駐在等を経験し、多忙とストレスから体調を崩し休職。
社会復帰後、西洋占星術に出会う。「とにかく『幸せ』になりたい」という思いで学びはじめたが、そのうちに自然と自分を受け入れ、肯定することができるようになったり、身の回りの出来事にふり回されずにやりたいことを行動に移せるようになっていったことに驚く。
そうした変化を経験して、占星術は「他の誰でもない、自分自身が生きやすくなるマインドセット」を作り、望む未来を実現するために役立つ実用的なメソッドだと実感。
学びを続け、現在、西洋占星術家として個人セッション、講座を行っている。
セッションでは、ご本人が持って生まれた魅力を丁寧にひも解いてお伝えする「お悩みの解決に役立つ具体的なリーディング」を心がけています。
自己紹介とごあいさつ
ずっと自分以外の誰かになりたかった
小学生の頃の記憶でまず鮮明に浮かんでくるのは、ランドセルにごみを入れられたり、ノートを汚されたり、聞こえるように悪口を言われ、仲間外れにされていたことです。すれ違いざまにぶつかられたり、ボールをぶつけられたりするので、休み時間はトイレや誰もいないどこかにいっていました。家では、母親につらいというのが恥ずかしくて「いじめる子はばかだよね」と平気なふりをしていました。
ある日、クラスメイトが別の子に何かを言って泣かせてしまったことがありました。私をいじめている子がそれを見て「私がその子を泣かせた」と嘘の報告をしました。担任は無言で私の髪の毛をつかみ、担任の机の前まで私を引っ張っていきました。延々と怒られ、げんこつされました。私は涙目でうつむいていることしかできませんでした。
幼いころから絶えなかった両親の喧嘩。父は機嫌が悪いと怒鳴り、椅子を投げ壁を殴って穴をあけ、母に暴力をふるいました。夕食の時、父が椅子に座った瞬間に心拍数が跳ね上がり、ご飯の味がしなくなりました。
家は寺院で父は住職だったので、何かにつけ近所の目も気になる環境で、母にはかなりのストレスだったようでした。興味本位で私の成績を聞き出そうとするご近所さんに、がんばったね、すごいねと誉められたかった私は、通知表でいかに「5」が多かったかを話しました。あとからそのことを聞いた母に「あんまり恥ずかしいこと言わないで」と言われました。
私は、いじめられるのも怒られるのも、自分の何かが間違っているからなんだといつの間にか思っていて、いじめてくる子にとりあえず謝っても、更にいじめられるだけでした。
中学では少し友達もでき、机の中の自習ファイルがボロボロに破られ汚されていることもありましたが、先生にそれを報告できるようになったし、もういいやとあまり気にしなくなりました。
高校時代は仲の良い友人もでき、楽しい学校生活でした。しかし家庭の状況はひどくなっていき、ストレスで激太りからの過食嘔吐を繰り返し、激やせしてメニエール病になったり貧血で倒れたりという日々。カッターで手首をちょっと切る(死ぬのは怖いので)ことが気晴らしになっていました。
「寺の妻が外で働くなんて」と母が外で働くことを許さず、一方でわずかな生活費しか母に渡さなかった父。修学旅行の積立金提出日にお金がなくて、「とりあえず『あ、忘れちゃった!』と言っておいてね、あとで必ず届けるから」と赤い目をした母に笑顔で言われました。
何の経緯だったか忘れたけれど、台所で癇癪を起した父親に「てめぇなんか大学行かせねぇからな」とどなられました。
高3の文化祭の日の朝、携帯の目覚まし音がうるさいと部屋に怒鳴りこんできた父が私の携帯を壁に投げつけました。壊れた携帯を拾って泣きました。
そんな人が、外の世界では袈裟を着てお経をあげ、大学で教鞭をとっているという現実。寺の本堂にあった巨大な座布団に座り、ご本尊をぼんやりながめ、拝むわけでも祈るわけでもなく、仏様がいるならここに救いに来てくれたらいいのに、と思っていました。
高3の時、母と一緒に、母の実家に逃げるように引っ越しました。祖父の協力のおかげと奨学金を申し込むことで進学を諦めずにすみました。大学では第二外国語で習った中国語が面白くて、国費留学の試験を受けて上海に一年間留学しました。
好きで身に着けた中国語なのだから、せっかくならば仕事に活かしたい。そう思って卒業後に就職した組織でしたが、今から思うと相当変わっていました。残業は2時間以上は記録してはいけないというルールがあったり、「批判が成長の糧」といった考えから、ひとつのプロジェクトが終わると担当者が全員の前で概要報告と反省をした後、これまた全員の前で指導(批判)される、ということが繰り返されていました。私は、同時通訳までやってみたいという目標があったので、給料をつぎ込んで週末に通訳者養成学校に通いました。
職場では事務以外に中国語を使った秘書やアテンド、通訳の仕事も受け持つようになり、「この団体の通訳は若い君が背負っていくんだ」と成長を期待される一方で、「あなたのためを思って」と小さなミスでも皆の前で「批判」され反省を促される状況。最初はなんか変じゃないかな?と思っていた疑問もいつの間にかわかなくなり、自分のダメなところは相当ひどいからここまで言われるんだ、認められるまで耐えて頑張り続けなきゃいけないんだと思うようになりました。
そこで仕事をしていた6年間の間に結婚と離婚をしました。「幸せにする」と言ってもらえたのが嬉しくて、この人といれば楽になれるという気持ちがあったように思います。でも、自分自身が何も変わっていないのに結婚して何かが変わるわけはなく、相変わらず仕事も辛いままでした。結婚生活は3年ほどでした。
仕事で同時通訳まで経験できたときに、精一杯やり切ったと思って転職活動をしました。退職を申し出た時の、隣の席の上司の言葉は「『次の仕事が見つかったから転職します』なんて、あなたはいいかもしれないけど迷惑で非常識よ。」もう会うこともない人だし、そういう組織だから転職するんだとは思ったけれど、結構落ち込みました。
転職して1年後、再婚したばかりでしたが、会社の海外事務所のマネジメントを任されて中国に赴任しました。前任者に問題があるので代わりに行ってほしいと打診されたポジションでしたが、前任者本人は納得がいかないようで嫌がらせもあり、「結果を出して上から認められないといけない」と思いつめて仕事をしました。
評価されてポジションは上がりましたが、その頃には、なんだかいつも不安で、上司からアドバイスをもらえば「自分はなんてダメなんだろう」と落ち込み、誉められれば「これ以上プレッシャーが増えるのはしんどい」と重圧に受け止めるようになっていました。
楽しそうな人、きちんと「No」が言える人をみると、羨ましく思ったりイライラしたり。そして「私ってなんて嫌な人間なんだろう」と自己嫌悪に。北京と東京の両方で仕事は増える一方、なのにスタッフを信頼して仕事を任せきることもできず、朝8時から深夜1時まで機械のように働く日々。楽しかったはずの中国語もプレッシャーでしかなくなり、自分が好きなもの、したいこと、食べたいものもよくわからなくなっていました。
当時の私は自信のなさ、怯え、完璧主義、自己憐憫、人をうらやむ気持ち、疲労などで心と身体がぱんぱんになっていました。日本に帰国した後、ぷつっと糸がきれたかのようにある日突然急に身体が動かなくなり、涙がとまらなくなり、激しい頭痛や蕁麻疹で出社できなくなりました。適応障害と診断され、休職して一年半ほど治療を続けました。
占星術との出会い&目からウロコの連続
そんな私が大きく変わるきっかけになったのが占星術との出会いでした。
あるとき友人から、占星術を学んですごく面白かった、という話をききました。子供の頃、「おまじないの本」を図書館で借りて「テストで100点がとれますように」、「お父さんとお母さんが仲良くなりますように」なんて願い事をしていたなぁ…なんてぼんやり思い出しながら聞いていましたが、その後も友人の話がずっと頭から離れない。
自分自身も、環境も嫌で嫌でたまらない。そんな現実が変わるなら、星でも宇宙でも神様でも、何でもいいから助けてほしい。必死だった私は占星術を学びはじめました。
すると、学びの課程はまさに“驚きの連続”でした。私はさぞかし“わるい運命”をもって生まれたのだろうと思っていましたが、星ならびに「よい」、「わるい」は存在しないということが分かったのです。
たとえば、確かに私のホロスコープ(星ならび)では、人間関係を表す部分に星が集まり、「限界を超えるようなストイックな経験、対人関係で相手から受ける影響の大きさ、重圧」などを表していました。でもその一方で私には、成果が出るまで取り組み続ける忍耐力や、引き受けたことに全身全霊で応えようとする責任意識と実行力が備わっていることも知りました。
それもまた同じ星から与えられていた資質だったとわかり、驚くと同時に、「あぁ、そういうことだったのか!」と、ストンと腑に落ちる感覚がありました。
また、ホロスコープから私が適応障害を発症した数年の状況を読むと、私の持っている仕事への情熱や責任感、忍耐力が爆発的に発揮され、精神力や体力の限界を試されるような人生に一度きりの星の配置がその数年の間にぴったり出来ていました。「病気になって仕事ができなくなり療養した」という経験ですが、それは「仕事の頑張りかた」や「情熱を注ぐ方向」を根本から考え直すという、大きな人生の転機の流れの中で起こった象徴的な出来事だったのです。
「生まれ持った可能性や条件は変えられないけれど、その活かし方は自分で変えられる。」「何をしたいか、何をしたら幸せかは、私以外の誰かをまねしても見つからない。答えは、自分の中にある。」そう気づけたことは、私にとって本当に大きな転機になりました。
いつの間にか「楽」になっていった驚きの変化
占星術を学んでいく過程は、私を縛っていた「自分は間違っている、劣っている」という思い込みが自然とはがれ落ちていく過程でもありました。
私はいったい、どんな性質を持って生まれ、何を楽しいと感じ、何を生きがいと感じ、何に恵まれていて、何を克服していく計画を持って生まれたのか。そうした自分自身の「人生の設計図」を細かく知ることができ、過去の様々なことがすとんと腑に落ちていきました。すると、ひとりで考えている時には想像もできなかった色々な自分がどんどん見つかっていくのです。
じゃあ、持って生まれた設計図と備わった力をどうやって使ったらよりよい人生を送れるの?私は何ができたら幸せを感じられるんだろう?そんな風に夢中で学びながら、自分の気持ちを取り戻していきました。
学びはじめの頃の私は、占星術を使えば何も失敗しなくなって、誰にも否定されなくなって、誰よりも幸せになれると思っていましたが、いつの間にか考え方自体が大きく変わっていました。
私は、私。他の誰かになろうとしなくていい(なれない)。
「あの時」の私は、自分なりに必死でその時考えうるベストをつくしてきた。頑張ったね。
何があっても自分の価値は揺らがない。失敗はトライしてみた証拠。次につながるきっかけ。そこで終わりではない。
運気の流れはみんな違う。人と比べて焦る必要はない。生きることを楽しんでいい。
こんな風に自然に思えるようになっていきました。
そして、
ダメな過去、ダメな自分として否定してきた「過去の自分」や「今ある自分」をそのまま認め、受け入れられるようになりました。
自分を責めなくなったら、周りの出来事に感情的なることが減り、他人や何かのせいにすることが減りました。
何があっても自分が「ダメ」になるわけではないと分かったので、行動することが前よりも怖くなくなりました。
人にどう思われるかと怯える事が減りました。
過去の私と比べると、生きることがずっと楽になり、安心したり感謝の気持ち、未来への楽しみで満たされる時間が増えました。
自分が持って生まれたものを嫌い、否定し、自分でさえなくなれば幸せになれると思っていた過去の私からは想像もつかなかった変化です。
私という一人のちっぽけな人間にも宇宙の星たちのエネルギーが注がれ続けていること、人間の心の世界と自然界とのシンクロ二シティに思いを馳せながら、これからも占星術の奥深さを学び続けていきたいと思います。
運命は、自分で動かす。占星術は、そのためのナビゲーションシステム
私は、生まれ持った「人生の設計図」や運気の流れはあるけれど、具体的な未来が決まっているわけではないと思っています。
自分の人生は自分の意思で作っていくもの。とはいえ、過去の経験が自分の意思にブレーキをかけてしまうこともあるし、慌ただしい日常や複雑な人間関係の中でどうしたらいいかわからなくなることも、何が自分にとって大事なのか迷うことだってあるはずです。
そんなとき、占星術は星の動きと人間の心と身体のつながりを通して驚くほど鋭く、多面的に自分について教えてくれます。そこには、生まれ持った力と運気の流れを最大限に活かし、望む方へと運命を動かしていくヒントがたくさん詰まっているのです。
自分の生まれ持った特徴や強み、人生の設計図を詳細に教えてくれる最強の自己分析ツールとして。
自分の「いま」の状況を把握し、納得のいく進み方を考えるためのナビゲーションシステムとして。
日常の中で置き去りにされがちな自分の素直な気持ちを思い出し、心の活力をチャージする羽休めの場所として。
幸せになりたいと真剣に考えているかたが、ご自身の生まれ持った資質とその活かし方を見つけたり、お悩みを解決し、望む未来に向かうためのカギを手に入れるお手伝いをしたい。そうした気持ちを胸にセッションや講座をしています。
星と心の世界のつながりを通して、たくさんの方とお会いできるのを楽しみにしています。
お読みいただき、ありがとうございました(^^)!